大東流合気柔術とは


由来

口伝によれば、大東流は、代々清和源氏に伝わっていたものを、11世紀ごろ新羅三郎義光が集大成したものとされている。
 義光は家伝の武術に一段の研究工夫をこらし、当時、戦場で志望した兵士の屍体を解剖し、その骨格の組立を調べて逆極手の技を極め、さらに女郎蜘蛛がその張りめぐらした細い糸の巣網の上で、自分よりも大きな獲物と戦い、ついにがんじがらめに搦み取る手練の技に暗示を受け、また、白拍子の舞にヒントを得て、苦心研究の結果、合気の神髄を体得し、極意を極めたといわれている。

 義光の子孫が甲斐の武田荘に住み、武田姓を名乗ってからは、武田家家伝の武芸として代々伝えられた。天正二年(1574年)、武田国継が会津に至り、この技法を伝えた後は、会津藩御留技として藩内のみに伝承された。会津藩では大東流を藩の御敷居内(御殿術)に改定して、家老、小姓、重臣、奥謹者及び五百石取り以上の御敷居内者に習得させた。その大東流御敷居内の指導は家老西郷家が代々勤めた。
 
保科近悳(会津藩元家老西郷頼母)は、明治31年5月12日武田惣角に『もはや剣の時代は去った。大東流合気柔術の秘法を後世に伝える後継者はお前より他に無い』と諭し、藩の御敷居内(御殿術)を伝授した。惣角は小野派一刀流と大東流合気柔術をもって、全国を巡教、明治、大正、昭和と三世代にわたりその普及に努めた。そのため、惣角は大東流合気柔術の中興の祖と言われている。
 
惣角は、昭和14年、門人の一人である久琢磨に唯一人免許皆伝を許した。しかし、昭和18年4月25日青森において巡回指導中に客死した。
 
その後、大東流合気武道宗家は武田時宗が継承し、網走の大東館で大東流合気武道総本部として合気柔術と小野派一刀流の指導・普及に努めた。


特徴

大東流合気柔術の特徴

大東流合気柔術は、流祖新羅三郎義光よりはじまり、会津の武田家に伝承された武術である。その間、幾多の返還を経て、合気柔術として大成した。

 特徴は素手又はみにつけている武器で、敵を怪我させることなく、無抵抗化して、補足する古流の体術である。

時代を経過して、小具足姿で武器を持たずして敵を捕捉する柔術に、さらに殿中で血を汚すことなく、怪我させずに敵を捕捉する武術として研究大成された。
居捕の多いのも特徴である。「合気」という言葉を使ったのは大東流が最初と言われている。

系譜
新羅三郎源義光ー武田義清ー武田信義ー武田信光ー武田信政ー武田信時ー武田信成
ー武田信春ー武田信 満ー武田国継ー武田主税ー武田信次ー・・・(三代中略)・・・武田惣右衛門
ー武田惣角ー久琢磨ー森恕
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